所縁名物

坊ちゃん団子 一六タルト 伊予絣 笹飴 坊っちゃん列車



坊ちゃん団子

小説『坊ちゃん』にはこのような場面がありました。 『おれのはいった団子屋は遊廓の入口にあって、大変うまいという評判だから、温泉に行った帰りがけにちょっと食ってみた。 今度は生徒にも逢わなかったから、誰(だれ)も知るまいと思って、翌日学校へ行って、一時間目の教場へはいると団子二皿(さら)七銭と書いてある。 実際おれは二皿食って七銭払(はら)った』と。 これは「つぼや菓子舗」で創業1883年、以前は「茶屋又」という屋号で、当時「湯晒し団子」と呼ばれていたものが小説『坊ちゃん』に出てくる団子のモデルとされています。 米餅に小豆餡をまぶした素朴なものと云われていますが、現在の「坊ちゃん団子」は『坊ちゃん』が発表されて道後の団子が有名になり、 二代目が今の三色(緑、黄、茶色)にしたようです。

一六タルト

松山銘菓には「一六タルト」がありますが、タルトは松山初代藩主松平定行が正保4年長崎探題職兼務の命を受け任地に赴いた折、南蛮菓子タルトに接し、 その味を賞でて製法を松山に持ち帰ったと云われています。 その後、松山の菓子司に技術が伝わり松山名産になったと云われています。

伊予絣

松山市内に「四国海産物センタ-」及び「伊予絣(かすり)資料館」があります。 「伊予絣」の創始者、「鍵谷カナ」は1782年(天明2年)松山西垣生今出に生まれ、1864年(元治元年)82歳で没。 その動機は農家のわら屋根を葺き替える時、わら屋根を押えた竹が煤(すす)けて縄目のあとの模様が浮き出ているのを見て、ヒントを得たと云います。 当時は発祥の地名を取って「今出絣」と云われていたが、後に「伊予予絣」と呼ばれ、日本三大絣(久留米、備後)の一つとなり、 全国に広く知られるようになったと云われています。 「伊予絣資料館」では「伊予絣織機」や「藍染工房」及び製造直売コ-ナ-も設けられており、伊予絣の製造工程を偲ぶことが出来るようにもなっています。

笹飴

「坊っちゃん」に、「清が越後の笹飴を笹ぐるみむしゃむしゃたべている」というくだりがあり、それ以来全国的に有名になり上越のみやげに欠かせないものとなりました。飴に移った笹の香りが旅情を誘います。

坊っちゃん列車

現在、松山市内(松山市駅・古町・道後温泉駅 等)を走り観光客の目を楽しませている「坊っちゃん列車」。実はこの列車は復元されたものなのです。 その昔、伊予鉄道開業から間も無い頃(明治21年)から67年間にわたり活躍した蒸気機関車がモデルとなりました。 当時は黒煙をもくもくと出しながら、最大で18台で地域と地域を結び、松山市民の足として活躍しました。 それから、蒸気機関車(坊っちゃん列車)は、地域の経済・産業・文化の向上に貢献しましたが、列車の電化に伴い路線から姿を消しました。 当時の坊っちゃん列車のうち、機関車は鉄道記念物に、さらに客車を含めては県文化財に指定され、梅津寺公園などで展示されています。 「坊っちゃん列車」の復元については走行場所をはじめ技術的にも数多くの問題があり困難とされてきました。 しかし、地元地域からの熱い声を受け、また地域活性化の起爆剤として、多くの難題をクリアし実現したのです。 昔、石炭で蒸気の力で動いていましたが、現在はディーゼルエンジンを採用しています。さらに、煙突から出ている煙に見えるものは、蒸気を煙に見たてたものです。 環境に配慮した面も新生「坊っちゃん列車」の特徴と言えます。

初期の坊っちゃん列車

ドイツ・ミュンヘンのクラウス社製B形蒸気機関車(甲1形)2両で運行を開始した。

昭和28年頃の坊っちゃん列車

1960年に全車廃車となり、1888年以来78年に渡った「坊っちゃん列車」は一旦幕を閉じた。

梅津寺で展示の坊っちゃん列車

わが国に現存する最古の軽便機関車で、明治21年から昭和29年まで、67年間走り続けました。

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